kiss the rain-キスの雨を-
シャワーを浴び、出てくると妻はもう惰眠を貪っていた。
パビリオンに置かれた一台のグランドピアノ。
先日、無理矢理別所に置いてあるピアノまで弾きに行かされた俺。
そんなことは二度とごめんだということで、この広い空間に持ってきたのだった。
持ってきたはいいが、お互いが忙しく、なかなか弾けないままだった。
遅くに帰ってきた俺に妻はそうそう待っていましたとの笑顔で出迎え、「弾いて!」とねだる始末。
悪い気分にはならないが、汗をかいたこちらとしては汗を流したい思いの方が強かった。
そんな俺の思いなど知らず、彼女はとにもかくにもねだる。
とうとうその根気に負けた俺は「シャワーを浴びたあとに弾く」と約束した。
いや、させられたの方が合っているが。
満面の笑みで「待っている!」という彼女はピアノの後ろに置かれた長椅子に座り、待っている間に生まれて来る子供のために編み物を始めた。
その姿をみて浴室に行ったのだが・・・。
今、目の前の彼女は器用に手もたれに身体を寄せ、眠っている。
どうも妊婦というものはやたらに眠くなるらしい。
ほんの少しの時間があればところ構わず眠ってしまう。
今日もそんな塩梅なんだろう。
妊婦としての自覚書状がないのかと起こりたくもなるが、自分を待ってくれてこうなったんだろうと思うと、顔がほころぶ。
隣に座り、じっと彼女を見つめる。
この寝顔を何度見たのだろう。
とても愛しい。
額に手を差し入れ、そっと髪に触る。
すると手の温度に違和感を覚えたのか、眉間にしわを寄せ、やっと目を開けた。
「あれ?…シン君、もう上がってきたの?早いね。…もしかして寝てた?」
目を擦りながらやっと覚醒する。
「ああ、寝てたよ。こんなところで寝るなよ。身体を冷やすぞ。」
優しいトーンで言ってみるが、忠告も忘れない。
と言っても聞きやしないのはわかっている。
結局俺が面倒をみることになるのだから。
「あ、シン君。ピアノ、早く弾いて!」
約束は忘れなかったらしい。
ついでに夢の中に置いてくればよかったものを。
ため息をひとつ落とし、ピアノの前に置かれた椅子に座る。
その横に彼女はちょこんと座る。
「失敗しても、文句を言うなよ!」
そう言って、音色を奏でる。
前回弾いたとき、彼女が「キレイだね。好きだよ」と言った曲。
きっとその名前も知らないだろう。
彼女は俺の肩に凭れかかり、聴きいっている。
最後に少し音を狂わせてしまったが、もう一度挑戦してきっちりと弾く。
俺らしいと言えば俺らしい。
どうだ?と言うばかりに彼女を見ると、完全に寝入っていた。
確かに胎教によさそうな曲で、眠りを誘う曲だ。
思わず微笑んで、彼女を抱え、寝室に運ぶ。
彼女の横に身体を滑り込ませ、寝顔を見る。
何度見ても飽きることはない。
額に唇を落とす。
唇ではなく額に。
そうしないと自分の欲望が加速しそうだから。
「ねえシン君、あの曲のタイトル何?」
半分目を開け、聞いてくる。
「kiss the rain」
流暢な発音で言ってみたので、もしかしたら聞き取れていないかもしれないが、それでもいい。
俺だけが知っていればいい。
「いっぱいしようね・・・。」
彼女はそう言って完全に眠りに落ちていった。
わかったのかわからなかったのかその答えを知る術はもうない。
このまま彼女は朝までぐっすりだ。
穏やかに眠りに誘われて眠りに落ちる。
ああ、しような。キスの雨をたくさん。
お前だけに――――――
そう思って。
fin.